震災後の「無い」という状態とは

都市が崩壊するほどの大規模な震災では、交通網もすべてダウンします。道が道ではなくなり、瓦礫の山となり、バスはおろか鉄道もすべて運行不能になります。都市が都市として機能を維持できているのは、それら「交通」があってこそです。交通によってもたらされるのは「人」の移動、そして「資源」の移動です。都市と呼ばれる地域は、人口密度も高く、大量の物資を消費します。消費するための物資は、生産地、例えば工場や農場から「交通機関」を利用して輸送されてきます。それが各小売店に並び、私達が消費することができる状態になります。
大地震で都市が破壊されると、まず生活に必要な物資を販売している「店舗」が物理的に破壊されます。あるいは、店舗が無事でもそれを運営する販売員もみな被災しています。その時点でもう正常な消費活動は停止します。その地域にいる人々は、みんなが等しく被災しています。そこには消費者と提供者という枠組みを超え、みんながふあんなときを共にしています。その状態で「店を継続してほしい」ということ自体、無理があることかもしれません。
そして、ある程度事態が把握できるようになった際、例えば一晩か二晩過ぎたあと、交通網が寸断されていることが致命傷としてとし機能に作用しはじめます。
「モノ」がなくなります。
食料を調達しようにも、販売しようにも、どこからも店に入ってこないのです。地震によってライフラインである電気、ガス、水道が止まってしまっていれば、そこに暮らす人々は飢えることになります。物資の豊かな日本で、餓死する可能性がでてしまうのです。
それほど、交通網は重要で、あたりまえのように利用している商店は全く用をなさなくなります。あたりまえのように利用している電気やガス、水道なども止まってしまえば、私たちはゼロから何かを作り出すすべは持っていないのです。
都市を襲う地震は、これが一番恐ろしいのです。陸の孤島と化した都市部では、未曾有の物資不足が被災者を襲うでしょう。
これに備えて緊急用の食料や水を備蓄しておく方法は有効です。ただ、それもそれをしまっている「家」や「倉庫」が無事であれば、の話なのです。