大災害時に問われるモラル

大きな震災のような厄災の際には、自身の周囲の環境は通常とは全く違ってしまいます。職場がなくなり、家がなくなり、そして親しい人や家族を失うことすらあります。そのような状況におかれてみて、初めて震災の辛さ、過酷さがわかるのです。それまで当たり前だったことが一気に過去の事になり、普通の暮らしが憧れになる。そしてそのような生活がいつまで続くのかすらわからないのです。
被災した際の闘いは、事態が一応の落ち着きを見せるまでが正念場です。警察も消防も機能しない、常軌を逸した状況の中で、いかに自分のモラルと理性を保てるのかが問われるのです。傷ついた人や、瓦礫になった街、普段の光景は無残に崩れ落ちています。その中で、ただ生きるためだけに、そして自分と同じ境遇の隣人を一人でも多く生かすために、その場でアナタしかできないこともあるはずです。
私たちは、人間は、社会の中でこそ生きる意味を見出す生き物です。そしてその社会は多くの同胞によって形成されています。一人でも多くの人が「生きる」ことで、私たちの存在意義となる社会が守れるのです。社会の「死」は、人間が人間であることが終わるということです。何が起きても、街が崩れても、それだけは阻止する必要があります。「社会」という共同体は、私たちの「モラル」ひとつで、物質的には崩壊しても、対人間の関わりとしては崩れることがないのです。
そうはいっても、自分の命と自分の家族を優先するのが人というものです。それは仕方がないことです。先の震災でも、瓦礫の下の隣人を救おうとして波にのまれた方も沢山いらっしゃったといいます。ここで伝えたいモラルとは、誰かの迷惑にならない、自分を優先しない、ということです。
起きてしまった震災はなかったことにはできません。その瞬間から、その事実を受け入れて暮らしていく必要があるのです。その中で、少しでも自分だけが、少しでも家族を、という気持ちは間違いではありません。ですが、他の方も同じ気持ちであることを忘れてはいけません。
係争になっても、私たちには理解しあえる言葉があり、事態を収集するための知恵があります。被災した後には、全ての方が同報であるということを、忘れては欲しくないものです。